堤淺吉漆店について

日本文化と漆 
堤淺吉漆店のルーツ

さかのぼること約10,000年前、縄文時代から漆は日本人の生活の中にありました。
その後、様々な時代を経て、漆産業は江戸時代にピークを迎えます。
江戸中期から長崎港を通じてビルマ産などの輸入漆が入ってくるようになり、
漆の使用量は、国産と輸入を合わせて年間約2000トンに。
しかし、大正時代になると、国産漆の生産が激減。
殿への調度品や武具が不要になり、漆の増産を奨励する政策が廃止されたのです。
一方、町では日本を代表する工芸品として漆器が流行しました。

創業

1909年(明治42年)
初代堤淺吉が丁稚奉公から独立、堤淺吉商店を創業
手グロメと機械クロメによる漆の精製、濾し紙販売を行い、箔押漆を開発

戦前

昭和初期、国産漆の生産量はわずか年間50トンにまで減少
輸入量が増え、漆全体の使用量は昭和11年に2000トンを超える

戦時中

戦争の影響で輸入量が激減
漆は錆止め塗料として軍事利用され、漆の精製が国によって制限され堤淺吉商店は休業を余儀なくされる

戦後

高度経済成長とともに漆器の需要も増加そのほとんどに輸入漆が使われた
1950年(昭和25年)2代目堤茂が仕事を始める

1975年(昭和50年)
漆の輸入量は年間500トン
1983年(昭和58年)
株式会社堤淺吉漆店を設立
合成塗料の開発
1950年(昭和25年)
塗料メーカーより、合成漆と呼ばれる、カシュー樹脂塗料の販売が開始され、急速に普及。一方、中国からの原料漆輸入停止により一時的に国産漆が増えたものの、合成塗料の普及の影響もあり再び減少。
1976年(昭和51年)
3代目堤孝が仕事を始める
ニーズに合わせて取扱品目を増やし、事業を拡大
箔押漆を全国へ展開
バブル崩壊後
1999年(平成11年)
光琳漆・魁漆開発
2003年(平成15年)
国産漆の光琳が国宝重要文化財の修復に採用される
2007年(平成19年)
日光東照宮への国産漆の全面使用が決定
堤淺吉漆店国産漆精製量が国産漆生産量の
65~70%を占めるようになる
2000年(平成12年)
合成塗料の類似品が増え、箔押し漆の売上が減少
2004年(平成16年)
4代目堤卓也入社
漆の輸入量は100トンにまで減少し、業界は低迷

その他、ガラス漆、クオリアコーティング、カラークリヤー漆、
三和漆工用研磨剤、淺吉砥石などの商品を開発

新たな歩み

漆の安定供給と品質の追求。そして漆の魅力を伝える活動へ

漆産業の衰退を肌で感じるようになり、漆と漆の文化を残すため、
自然素材である漆ならではの魅力を伝える活動を始める

2015年(平成27年)
文化庁が国宝・重要文化財の修復は国産100%
の漆を使うことが望ましいという通達を発表
2017年(平成29年)
「Beyond Tradition」プロジェクト始動
2016年(平成28年)
「うるしのいっぽ」プロジェクト始動
2019年(令和1年)
持続可能なモノづくりの拠点「工藝の森」
プロジェクト始動

4代目堤卓也が共同代表として一般社団法人パースペクティブを設立。当社とも連携し、
漆の木や工芸素材となる木々を育てるなど、地域を豊かにする循環型のものづくりを目指す

コロナ禍

2020年(令和2年)
新型コロナウイルス感染症の流行
自宅で過ごす時間を充実させるプロダクトとして金継ぎコフレ、
ふきうるしキットや他業種とのコラボ商品を発表

2022年4月(令和4年)
WOOD SURFBOARD工房が京北に完成
山と町と海を繋ぐ「漆サーフプロジェクト」が始動
2016年(平成28年)
「うるしのいっぽ」プロジェクト始動